古地図でたどる「品川用水の面影」
「品川用水」をご存じでしょうか。それは江戸時代に玉川上水をその元とし、わずかな高低差のみを頼りに、武蔵野からはるばる品川までやってきた農業用水。現在では役目を終え暗渠となりその姿を見ることはできませんが、雨降りの日には空の鈍い光を反射し、その名残をみせてくれるようです。そんな品川用水の面影をたどり、まちを歩いてみませんか。
1. 「品川用水の面影」をたどるルート
「品川用水の面影」の写真展や特集記事も好評だったフォトグラファー渡邉茂樹氏がナビゲートするまち歩きツアー「品川用水の面影を辿る」が品川区主催にて2022年6月18日(土)に開催され、多くの反響がありました。(企画:しながわ観光協会)
今回はツアーに参加されなかった方も楽しめるウェブツアーを渡邉茂樹さんがナビゲートします。 特集記事:フォトグラファー渡邉茂樹「品川用水の面影」(2022年1月公開)
品川用水は、玉川上水を水源に境村(現在の武蔵境)で分水され、武蔵小山の地蔵の辻付近(小山2-7)で二手に分かれます。一つは、平塚橋から南東へ立会川を越え大森方面へと向かう流路。もう一つは五反田、大崎方面を通り目黒川や品川宿方面に向かう流路。どちらも途中分岐を繰り返しながら、広く品川の田畑を潤していました。
今回たどるのは、平塚橋から立会川方面へ流れていた品川用水のルート。しっとりと路面が雨に濡れている写真とともにお楽しみください。
2. 戸越公園駅から西大井駅へ
今回のツアーの集合場所に選んだのは、東急大井町線 戸越公園駅。駅から3分ほど歩いたスタート地点へ向かいます。補助第26号線から2区画ほど進んだ地点です。(写真1、時層地図①)
ここで用水は二手に分かれます。一つは東へ戸越公園駅の横を抜けて、豊葉の杜学園の前を通るルート(写真左手へ)。そしてもう一つが、南へ立会川を超え、西大井、大井水神公園へと向かうルート、こちらが今回のツアーコースとなります。
四間通りを渡ると東急大井町線が見えてきます。その先には葉を繁らせた大きな桜の木。
大井町線が走る築堤のたもとをよく見ると用水が流れていたところにだけ、コンクリートが横たわっています。用水が鉄道を抜けるためのトンネルの跡のように見えます。用水はこの下を通り、桜の横を流れていたのでしょう。
線路の反対側には桜の木を守るように、小さな公園があります。雨がたくさん降った日は、水たまりができて、往時の流れを想像できます。
公園からさらに先に目をやると、道路が少し蛇行していることに気づきます。用水の流れがそのまま残っているのですね。
蛇行する道を進んでいくと右手に伝統的な瓦屋根をのせた銭湯、「松の湯」が現れます。暗渠に関する記事を読むとよく出てくるのが銭湯。排水をするのに便利なため銭湯は暗渠沿いに多いそうです。
松の湯が建つ大原通りを越えるとすぐに小さな祠(ほこら)が現れます。ここが古い道だと教えてくれているようです。
近づいて見ると「庚申再建奉納」(昭和52年)とされた奉納板があり、祠の中には見ざる、聞かざる、言わざるを描いた三猿が供養塔の名の下に描かれています。
庚申信仰は60日に一度の庚申の夜に眠ると人間の体内にいる三尸(さんし)という虫が体から抜け出し天帝に罪を告げに行くので、その夜は寝ずに夜明けを待つという、主に男性が信仰していたものです。三猿を三尸虫になぞらえ、目、耳、口をふさいで、悪事を天帝に知らせないようにしています。
先に進むと立会い通りを越えた正面に、高台に建つレンガ色の建物が見えます。朋優学院高校の校舎です。高台はかつて左古山と呼ばれていました。地面は立会川に向かって降って行きます。しかし、用水は立会川を越えて大井村まで引かなくてはなりませんでした。そこで江戸の人々は築堤を作り、緩やかな勾配を維持したまま立会川を橋で越え、佐古山の中腹に沿って用水を進ませました。
左手の路地が元の地面の高さ、右手が築堤です。
築堤の上は公園になっています。
築堤が始まるところで用水は分水され、上蛇窪村内へと流れていました。上蛇窪神社には上蛇窪用水記念の碑があります。上蛇窪村と立会川を越えた大井村の間の水争いについての経緯が記されています。
用水は掛渡井と呼ばれる水道橋によって立会川を越えます(横断歩道のあたり)。そして、左古山の崖の中腹を沿うように進みながら、西大井駅南の光学道路方面へと向かいます。
用水が流れていた通りには、大谷石でできた石垣と排水パイプの跡。
しばらく進み側道を右に入ると、銭湯が再び現れます。「ピース湯」です。(写真左手の白いビル)その先には細い階段がついた急な坂道が続きます。用水はこの階段の一番下あたりを坂道を横切るように流れていました。
先に進み、伊藤保育園横の側道を入って行きます。正面には階段が現れます。踊り場のようになっているところを用水は流れていたようです。このあたりは地図でよく見ると、用水敷地の上に建てられた住宅が帯状に続いています。
伊藤博文公墓に隣接する団地の周回路の一部も用水の敷地と重なります。団地の敷地よりやや低い場所を流れていたのでしょう。写真左の住宅とは家屋1階分の高低差があります。この辺りの旧地名は「谷垂」でした。
3. 西大井駅から大森へ
西大井駅の南で線路をくぐった用水は光学通りで二手に分かれます。光学通りをニコン工場跡地へと進み、伊藤学園へと続くルートと、旧原小学校の前から西大井本通りへと進み、原の水神池からの自然流路と合流するルートです。後者のルートは大正期の地図でないと確認できないない古いルートですが、ツアールートはこちらを通ります。
西大井本通りからセブンイレブンの角を東に折れると、用水は大きく湾曲しながら進みます。自然の湧水が限られていた大井村では、用水の開通はまさに悲願だったであろうと想像されます。
原の水神池は今も断層から水が出ています。かつてはこの付近で収穫された野菜の洗い場として使われていました。ここの水は目の病気にも効くとされ、社も立っています。著名な国学者の折口信夫はこの池の近所に住んでいました。彼亡き後、所蔵していた河童の像から霊を抜き、その霊をこの池に放ったことが記録に残っています。
蛇行しながら進む用水は旧大井庚塚町(現在の西大井7丁目)へと進んでいきます。ここでは用水の高さと道路の高さが異なります。立会川を渡るときには築堤の上を流れていた用水は、ここでは道路の脇下を通っていきます。
次第に高くなる道路の壁を横目に見ながら、用水跡の路地を進むと周囲が少しひらけた場所に出ます。ここに品川用水にかけられた庚塚橋の一部が残っています。用水はこの辺りで原の水神池からの流れと合流しました。
再び暗渠は緩やかに蛇行を続けます。正面にはコインランドリーの看板が。コインランドリーの隣には銭湯もあったそうです。
鹿島庚塚公園では西大井で別れた流れと再び合流します。池上通りの裏からこの公園に通じる暗渠は、西大井から滝王子稲荷公園を通って流れてきた流路です。
一つの流れになった用水は現在も区境の役割を担いながら池上通りへと向かいます。
池上通りから先は往時の面影が色濃く残る場所です。大きな樹木が湾曲する流れに沿って並び、JR京浜東北線と東海道線の線路へと向かいます。行き止まりとなりますが、それ故に時間が止まったような気分にさせられます。
大田区側に入り、跨線橋を渡ります。橋の柵には写真撮影ができる開口部があり、ちょっとした鉄道撮影スポットです。しかし、鉄道以上に興味をそそるのはマンションの形。品川区の境に沿って建つマンションは、湾曲した形をしています。つまり区界役割を担っていた用水の流れに沿うように建てられているのです。もう地上では見ることのできない小川が、そのまま空に上がっているようで、私は密かな感動を覚えます。
跨線橋を渡ると大井水神公園です。その後、用水跡は苔むした細い路地となり、東京湾へと向かっていきます。
はるばると武蔵野からやってきて品川の田畑を潤した品川用水の面影を辿るウォーキングツアーはここでゴールとなります。
スタートからゴールまで、20m以上の標高差を下ってきました。とはいえ実際歩いてみると地形はアップダウンがあることに気づくでしょう。江戸時代の人々が自然の高低差と土木の力を巧みに使った知恵を感じながら、地形と歴史を楽しんで歩いてもらえると嬉しいです。
参考文献 品川歴史館編集「品川用水マップ」2022年 渡邉茂樹 「品川用水の面影—古地図でたどるかつての水路」ウェブサイト https://shinagawa-kanko.or.jp/featured/shinagawayosui/ 2022年
<取材・撮影・執筆> 渡邉茂樹/フォトグラファー、通訳案内士 「東京人」「プレジデント」などの雑誌や広報誌にて「ひと」、「まち」、「食」の撮影を中心に活動。しながわ観光協会やケーブルテレビ品川などを通じて地元品川区の商店街の人々の撮影も多く行う。戸越小出身、品川区在住。
これまでの写真展: 「品川用水の面影」(2022年) 「しながわ鉄道100景」(2021年/2022年) 「戸越銀座の一人一冊」(2014年) 「戸越界隈の一人一冊 with MOP!」(2018年)
※掲載内容は、2022.8.5公開時の情報です。