区民目線で見る「品川の街並み」の変化

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時代が変われば、街も変わっていくもの。品川区の街は長い時を経て、どのように変わってきたのでしょう。歴史の授業で習ったようなマクロの視点ではなく、あなたのすぐ隣に住んでいるかもしれない人々の視点で、街の変化を見てみませんか?

生まれたころは高度成長期まっただ中だった方々に、前回の東京オリンピック・パラリンピックが開催された1964年前後までの、品川区での思い出や日常の風景について伺いました。(2021.6.24)

  1. 忙しさの中で感じる、大崎の変化(大崎・「丸嘉酒店」店主 阿部勇さん)

  2. 大崎と戸越銀座を結ぶ百反通りにある丸嘉(まるか)酒店の店主阿部勇さんは昭和15年(1940年)生まれで、今年81歳。丸嘉酒店は大正11(1922)年9月、阿部さんの父親が今のお店があるすぐ近く(当時の東京府下大崎町)で開業しました。

    「私が生まれた頃、百反通り沿いは、特に個人商店が並んでいたんですよ。うちのような酒屋でしょ、それに八百屋、菓子屋、理髪店など、いろんなお店が並んでいてにぎわっていました。当時はまだ『東京府』だったんですね」

    その後、昭和4(1929)年に現在の百反通り沿いに移転し、阿部さんの兄が2代目に。さらに昭和44(1969)年には勇さんが3代目として店を継ぎました。

    「戦後、お店はお袋と兄と3人で営業していて。私は『御用聞き』としてビールや塩、味噌、しょうゆなどを各ご自宅に訪問しながら販売していました。御用聞きというのは、『サザエさん』に出てくる“三河屋さん”と同じですね」

    いまでもよく覚えているのは、当時の百反通り沿いの縁日。通りの両側に植木屋さんやバナナの叩き売り、雑誌、おもちゃなど、多い時には200軒ほどの屋台が並んでいたそう。

    「戦前も開催していたけれど、戦後は2のつく日に開いていました。お昼から夜の20時ごろまで。10年以上続いていたのかな。お酒のご祝儀を出すとハシゴを逆立ちしてくれる鳶職さんもいて。人力車も通れないほどの大盛況でしたよ」

    けれど、「そのころは店の営業でとにかく忙しかったので、残念ながらほとんど遊びに行った記憶がないんです」と笑う阿部さん。

    「酒を売っているから、全国各地の蔵元についていける機会があって、それが当時の楽しみだったのかな。あとはエルヴィス・プレスリーを見に銀座に行ったり、有楽町にある『日劇(日本劇場)』に行ったりもした。ただ、やっぱりお店のことが第一でしたね」

    昭和34(1959)年に、美智子妃殿下が結婚されると聞いたときは、「絶対にカラーで見たい」と思い、14インチのカラーテレビを購入。

    「昭和39(1964)年当時も、正直忙しくてあんまり記憶がないんだけれど、商売をしている合間に、慌てて山手通り沿いに聖火リレーを見に行ったのは覚えているかな」

    1964年の東京オリンピック聖火ランナー(大崎陸橋) ※品川区提供

    大崎の変化について聞くと、「ここ数年で大きく変わってきた」と答える阿部さん。

    「昔はこの店の前も街路樹やガードレールはなくて。再開発がどんどん進み、いまThinkPark Towerが建っている場所はかつて明電舎の工場だった。明電舎が製作していた大型電気機器を特殊な貨車で搬送していたから、工場内に大崎駅からの引き込み線があったんですよ。坂を降りたところ突き当たりの場所には踏切があって。それを知る人は、今ではどんどん少なくなっていますよね」

    昭和40(1965)年、大崎駅近くの百反坂坂下の踏切 ※品川区提供

    ●丸嘉酒店
    ・住所 東京都品川区戸越1-29-1
    ・電話番号 03-3491-5325
    ・営業時間 12:00〜19:30

  3. 街もファッションも大きく変わった1960年代(青物横丁・「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」会長 堀江新三さん)

  4. 「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」会長を務める堀江新三さんは、昭和24(1949)年生まれ。幼い頃から過ごしてきた街の景色をこう振り返ります。

    「僕は北品川の小学校、それから大井にある伊藤中学校に通っていました。当時、大井町のガード下には、将棋盤がずらっと並んでいる場所があって。詰将棋が並んでいるんだけど、『正解したらこれあげるよ』みたいな、当時はそういったゆるい雰囲気も残っていましたね」

    昭和40(1965)年の大井町駅西口前 ※品川区提供

    「1964年は、中学3年生のときだったかな。青物横丁にある品川寺(ほんせんじ)の門に並んで、旗を振ってスイスの選手たちを出迎えたのはよく覚えています。聖火ランナーを各学校から一人選出すると聞いて、僕は『柔道の試合で優勝したから出られるかな』と期待したけど、素行が悪くてダメでしたね(笑)」

    品川区役所(当時は北品川3丁目)前を走る聖火ランナー ※品川区提供

    世の中がガラッと変わっていった1960年代。昔は、空想の絵で描いていたような高速道路や新幹線が登場したのもこの頃です。

    「北品川は昭和36(1961)年頃、商店の中心地として多くの人でにぎわっていました。今の品川シーサイド駅のあたりは、かつて日本専売公社(現・日本たばこ産業株式会社/JT)のタバコ工場がありました。そこに勤めている人が3000人くらいいて、毎日すごく人通りが多かったですね」

    そんななか、時代の流れとともに少しずつなくなっていった風景がありました。

    「この辺りでいえば、目黒川では海苔をとって、橋の両サイドで干していたんですよ。そういうものが1960年代ごろに全部なくなっていった。というのも、かなり水質が悪かったので、国が漁業権を買い上げてやめさせたから。今はもう日本はきれいだなんてよくいうけれど、1964年以前まではそこらじゅうゴミだらけでしたね」

    ファッションの流行も大きく変化しました。石津謙介さんというファッションデザイナーが作った「VAN(ヴァン)」ブランドがあり、アメリカのアイビーリーガーのファッションが流行り始めます。

    中学から高校時代を通して、楽しかった思い出をうなずきながら振り返る堀江さん。ビートルズが世界的に大ヒットしたのも、まさにその頃でした。

    「戦後のご飯を食べるのでやっとという時代から、ちょうど豊かになり始めた時だったんでしょうね。日本では『ザ・タイガース』などのグループ・サウンズが大人気になっていました。でも僕は、『みんなイモだな。テレビでやるようになったらもう遅いんだ』とか、生意気なこと言っていましたね(笑)」

    長い間この地域を見続けてきた堀江さん。これからの品川の街は、どう変わっていくのでしょうか?

    「これからの時代、昔ほどものが大きく変わるっていうことは少ないかもしれないけど、子どもたちにとって思い出に残るものが何かできたらいいなと思っていて。これからもその手伝いをし続けたいですね」

  5. 東京オリンピックとともに開店、商店街で過ごした60年 (マロニエ洋菓子店店主 大野武さん)

  6. 旗の台三丁目商店街にある「マロニエ洋菓子店」店主の大野武さん(※大野さんへの取材は2020年2月に行われました)

    東急池上線と大井町線の線路が立体交差する旗の台駅。南側に広がる旗の台三丁目商店街では、幅4メートルほどの道を様々な年代の地域住民が行き来しています。

    通りがかった顔なじみに挨拶しながら「道幅が狭いのは、農道だったところに商店街を急ごしらえしたから」と教えてくれたのは、「マロニエ洋菓子店」の店主の大野武さん。この場所に店を構えて、60年以上が経ちます。

    1932(昭和7)年生まれの大野さんは、2020年に88歳を迎えました。少年時代は画家に憧れたものの、「戦後のどさくさの中でも生きていかなきゃ」と商売の道へ。

    ケーキ職人だった弟の影響を受け、欧風の洋菓子作りの技術を独学で身につけると、新宿の百貨店などで販売をスタートします。その後、自分の店を持つため、1959(昭和34)年に浜松町から旗の台への引っ越しを決めました。当時27歳の大野さんの目には、旗の台はどんな街として映っていたのでしょうか。

    「素朴というか、田舎っぽいというか。でも都心部に近くて、山の手エリアの入り口みたいな場所だから、きっと人が集まる街になるだろう。僕は絶対にこの街がいいと思ったの」

    もともとは田畑が広がっていた旗の台駅周辺は、元農道の両脇に貸店舗が増え始め、商店街になりました。商店街の立ち上がりとしては急だったこともあり、「各店の営業は試行錯誤で、入れ替わりがとても早かった」と大野さんは振り返ります。

    大野さんも、喫茶店からパン屋に変わった物件を引き継ぎ、まずはパンの販売をスタート。7年間営業した後、1964(昭和39)年8月に「マロニエ洋菓子店」の屋号で念願のケーキづくりを始めます。

    開業当時から作り続けるフランス菓子「ブリヤ・サバラン」は、遠方から買い求めに来るファンも多い

    1964年に開店したのは、「勢いがあり、みんなの印象に残る」から。朝7時から夜8時までケーキ作りに励む日々は、毎日がまさに無我夢中でした。

    「うちだけじゃないけど、商店街はどこも忙しかった。お店を開ければ地元のお客さんがわっと来てくれる。繁盛させてもらったおかげで、スポーツの試合とか記録とか肝心なことはよく覚えていない。厨房に小さなテレビを置いて、マラソンやバレーボールをよく観ていたはずなんだけどね」

    街の変化について聞くと、「うちの店や商店街にとって、学校や病院は欠かせない存在」と大野さん。ケーキがまだ珍しかった1960年代当時、マロニエ洋菓子店を訪れるのは、近隣にある昭和大学の学生たちだったそうです。

    「みんなでお茶するために、女の子たちがケーキを買いにきてくれました。マドレーヌやパウンドケーキ、ショートケーキ、モンブラン人気でしたね」

    香蘭女学校や文教大学付属中学校・高校など近隣の学校に子どもを通わせる親世代の利用も徐々に増え、昭和大学病院の拡大に伴い入院患者への手土産を求めて立ち寄る人も目立つようになりました。

    中原街道と大井町線の交差点 ※品川区提供

    旗の台駅の駅舎は2019年7月、木のぬくもりを感じられるデザインにリニューアル。現在の旗の台駅周辺の商店街では、長い間この街で暮らす住民だけでなく、子ども連れなど若い世代の姿も見られます。マロニエ洋菓子店では、息子の大さんが厨房に立つようになりました。

    大野さんは「昔から変化の多い街だけど、まだまだ未成熟。これからも面白い動きがあるんじゃないか」と、街への期待を寄せて話してくれました。

    マロニエ洋菓子店
    ・住所 東京都品川区旗の台3-13-5
    ・電話番号 03-3782-6273
    ・営業時間 10:00〜21:00
    https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/marronnier/

    激動の時代を駆け抜けてきた、1960年代の品川区。60年たった今、日本に限らず世界で、「変化」を余儀なくされています。変わるのは、当たり前に思っていた日常かもしれません。

    ※記事中の店舗情報は2021年4月下旬時点の内容です。営業時間、提供内容は変更となる場合がありますのでご了承ください。(2021.6.24)

    (制作=ノオト)

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    忙しさの中で感じる、大崎の変化(大崎・「丸嘉酒店」店主 阿部勇さん)
    街もファッションも大きく変わった1960年代(青物横丁・「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」会長 堀江新三さん)
    東京オリンピックとともに開店、商店街で過ごした60年 (マロニエ洋菓子店店主 大野武さん)